日本最大の半島・紀伊半島の南西に位置する和歌山県は、海・山・川といった自然資源に恵まれた地域です。その和歌山県の北東部、伊都郡のかつらぎ町は風光明媚な土地として知られ、四季折々のフルーツ生産が盛ん。町内には数多くのフルーツ農園が軒を連ね、観光農園では新鮮なフルーツ狩りが楽しまれています。
夫と6歳・5歳・2歳のお子さんと暮らす猪原有紀子さんは、ひょんなことから2018年にかつらぎ町に移住、翌2019年に農業で起業しました。以来、無農薬ブルーベリーの養液栽培や原木椎茸の栽培、規格外で廃棄されてしまう“廃棄フルーツ”を生かした無添加グミの開発とパワフルに事業を展開し、来年2021年には観光農園をオープン予定です。
そんな猪原さんは、大阪生まれの大阪育ち。移住するまでは大阪・東京でWebマーケティングの世界に身を置いており、農業も“田舎”暮らしもまったくの未経験でした。にもかかわらず、和歌山県かつらぎ町に移住を決め、農業で起業することになるまでには、どのようないきさつがあったのでしょうか。そして、移住や転職にためらいはなかったのでしょうか。猪原さんに、移住やキャリアについてお話をうかがいました。
大阪でキャリアと育児を両立。移住後も仕事を続けるつもりだったのに…
−まず、猪原さんのご経歴、現職に就かれるまでのキャリアをお聞かせください。
猪原さん(以下、敬称略):私は大学卒業後、株式会社セプテーニ・ホールディングス(セプテーニ)というWebマーケティングの会社に就職しました。セプテーニは、当時はインターネットの広告代理店のような事業をメインに手がけており、本社は東京でしたが、大阪の梅田に関西支社がありました。私はセプテーニで約10年お世話になり、EC事業やWebマーケティング業務など、いろいろな経験をさせていただきました。
−セプテーニといえば、国内トップクラスのWebマーケティング企業ですね。お勤めはずっと大阪で?
猪原:途中で東京本社に転勤しました。東京では営業に配属され、営業職を経験しました。その前に夫と出会ったのですが、転勤を命じられたのがプロポーズを受けた翌日で(笑)。東京と大阪をたびたび往復しては結婚のステップを進めましたが、彼も大阪の別の会社で働いていましたから、しばらくは遠距離生活でした。
−そうしてキャリアを積み重ねながら、お子さんを育ててこられた。楽ではなかっただろうとお察しします。
猪原:長男の妊娠がわかったのは、上長からやりがいのある仕事のお話をいただいた数日後のことでした。そのさらに数日後からは非常に重い「重症妊娠悪阻」というつわりに悩まされることになり、ほぼ寝たきりに。長男が生まれてからしばらくは育児にかかりきりでした。夫はやさしかったですし、長男はとてもかわいかったけれど、それまで積み重ねてきたキャリアが、スキルが、ポロポロとこぼれ落ちていくような喪失感を覚え、本当につらかったです。
−2017年に復職し、大阪で仕事を再開されました。都市部での仕事と育児の両立はいかがでしたか?
猪原:私は、セプテーニを“人が最高”な会社だと思っています。復職当時も人に恵まれ、上長はもちろん、周囲のみんなも子育てしながら仕事することを理解してくださいました。時短勤務からスタートしたこともあり、復職はスムーズでした。育児も私の母の協力を得て、母と夫と私の3人で長男を育てることができました。その後次男も生まれましたが、おかげでどうにか仕事を続けることができたわけです。(長男の育休後、復帰せずすぐに次男がうまれ、その後復帰)
それでも、「この働き方は限界があるだろうな」とはどこかで感じていました。今振り返ると、大阪でワーママ(ワーキングマザー)していたころは毎日のように、子供を「早く、早く」と急かしていたんですよね。早く支度して、早くご飯食べて、早く移動してという具合に。そんなふうに、何かに追われるような生活を家族でずっと続けていくのは、ちょっと無理だろうなと感じていたのです。
−そうすると、「いつかは会社を辞めよう」というお気持ちは当時からあった?
猪原:いえ、全然。確かに、将来的に起業したいという気持ちはありましたし、結婚前にはグロービス経営大学院に通ってMBA(経営学修士)の取得も目指していました。けれど、私にとってセプテーニは大好きな会社でしたし、もし辞めるとしてもお世話になったたくさんの方々に恩返しをしてからと考えていました。あとでお話ししますが、和歌山県への移住を決めたときも会社を辞めるつもりは全然なくて、和歌山から大阪へ通勤する算段をしていました。
移住の決め手は「山」。本当に重要な情報はネットには落ちていない
−そして2018年、和歌山県伊都郡かつらぎ町に移住することになります。その経緯を教えてください。
猪原:夫は再生可能エネルギーの普及に関する仕事をしていて、「原子力発電の電気に依存せず、自然の恵みを生かした再生可能エネルギーを普及させたい」という思いがありました。私もその思いに共感し、持続可能な社会を子ども達に残したいと考えるようになりました。そこで、大阪とは別の地域に自分たちで土地を購入し、太陽光発電の設備を備えた発電所を建てるという取り組みを行なっていたのです。1基目は島根県に建てました。
太陽の光を受けて発電する太陽光発電システムの発電量は、その場所の日照時間や日射量によって変わってきます。島根県は日射量が比較的低い地域なのですが、それでも一定の発電効果を得ることができ、その電気を売った利益も相応に出ていました。そこで、2基目の設置を考えるようになったのです。
−とても興味深い取り組みです。その太陽光発電設備2基目の建設地として目星をつけたのが、和歌山県伊都郡かつらぎ町だったのですね。かつらぎ町はどのようにお探しに?
猪原:まず都道府県単位で、和歌山県に候補を絞りました。和歌山県は、年間を通じて安定した日射量が期待できる地域です。そして、当時住んでいた大阪との行き来もしやすい。そのときは移住前提ではなく、あくまで太陽光発電設備の設置に適した土地で、かつ森林伐採して建設する太陽光は大嫌いだったので、景観に影響のない土地を10か所くらいピックアップしました。そうしていざ和歌山へ下見に向かい、一番最初に訪れたのが、今住んでいるこの場所です。
そのときここにあったのは、半分傾いているような古い平屋に、自然にまかせたままの木々。でもその周囲には、今まで見たことのないような美しい山々が連なっていました。その景色に、夫が一目惚れをしてしまったんです。庭の真ん中辺りで、夫が「ここなら住んでもいいな」と言いました。
−それを聞いたときの、猪原さんの心中は。
猪原:そのときは「いや、ないだろう。絶対ないだろう」と思っていました。
−ほかの候補地もご覧になったのですか?
猪原:行きました。ただ、太陽光発電設備の設置に適した場所となるとどうしても、山奥であるとか、崖の近くであるとか、携帯電話やWi-Fiがつながりにくいといった場所が多くなりがちです。夫は夫でもう和歌山に移住して、壮大な山々と自然に囲まれたこの場所で子育てをしたいという方向に心を決めていましたから、その観点も含めて下見をすると「やっぱり最初の場所がいいね、あの場所に住みたいよね」という反応になっていました。
−猪原さんご自身が移住を決心されたときのことを聞かせてください。
猪原:私が明確に決心したのは、かつらぎ町を20回ぐらい訪れた辺りの時期です。少なくとも太陽光発電設備の建設は決めていましたので、土地の詳しい確認や購入の手続き、その他もろもろの準備で、何度も町に来ていたんですね。その過程で、もし移住するとしたら子供が通うことになるだろう保育園、小学校、中学校を見たり、最寄りのスーパーやコンビニなどのお店に寄ったりもしていました。
けれど、それだけ通ってもなお、かつらぎ町で生活するイメージがまったく湧かなかったのです。それまでずっと生活していた都市部との違いが大きすぎて、有り体にいえば“田舎”すぎて、どういう生活になるのか想像できなかった。そのことがかえって、私自身のなかで移住の大きな決め手になったのです。
−というと?
猪原:たとえば海外には、日本とのさまざまな違いがありますよね。海外留学では、その違いを体感することが大きな勉強になります。それと同じように、中途半端な変化よりも大きな変化、想像もつかないほどの変化は、私たち家族にとって絶対にプラスになるだろうと。そしてそれは最高なことだなと、そう思ったのです。
−ほかに何か調べたり検討されたりしたことがあれば、教えてください。
猪原:皆さんから聞かれるのは「移住する前にどんな情報を集めましたか?」ということ。ですが、本当に重要な情報はネットには落ちていないものです。保育園や小学校の場所などは調べることができますが、どういう方が近所に住んでいらっしゃるのか、子育て世帯にやさしい地域なのか、……といったことは、実際には住んでみないとわかりません。ですから、半分賭けのような気持ちで移住したというのが正直なところです。
しかしながら、しいていえば、自分が腑に落ちるまで何度でも足を運ぶこと、「ここに住んでもいいかも」と思えるかどうかを確かめることは、重要なポイントだと思います。
−猪原さんの場合、ご夫婦お二人とも大阪に仕事をもちながらの移住となりました。和歌山と大阪を往復する通勤は、移住の懸念にはなりませんでしたか?
猪原:おっしゃる通り、通勤のことはやっぱり一番心配でした。かつらぎ町の自宅から大阪市内までは車で90分という距離ですが、夫も私も電車通勤で、通勤はドアtoドアで片道約2時間、往復約4時間という計算でしたから。
移住前、私は三男を妊娠しており、移住してもしばらくは休業する見込みでしたが、いずれは復帰するつもりでした。でもそんなとき、リモートワークを推進する流れが社内に出来つつあり、もしかしたら三男を育てながらかつらぎ町でリモートワークできるかも!と思えた。このことは私の背中を、大きく押しました。
子育て×前職経験×移住者視点のかけ算で起業。移住後の暮らしは「最高」
−しかし実際には、猪原さんは移住後に会社を退職されていますね。
猪原:当てにしていたリモートワークでの復帰が、難しい状況になってしまったんです。夫の仕事の調整や子供の保育園の送り迎えなどいろいろ計算していて、週数日でもリモートワークできればやりくりできる算段もついていたのですが……。退職を決断するまでは悩みに悩みましたし、会社の人事と交渉もしましたが、最終的には物理的に無理だなと断念しました。
夫は移住後も大阪で働き続け、1年半は通勤していました。今も会社員として働いていますが、今年は新型コロナウイルスの感染拡大に伴いリモートワークが導入されて、それ以来ほぼ家で仕事をしています。
−猪原さんは会社を退職後、農業で起業されました。地元かつらぎ町などで勤めに出るという選択肢をとらなかった理由は?
猪原:以前から持ち続けていた起業志望に加え、自然あふれる土地で日々家のリビングから山々を眺め、近所の新鮮なフルーツをおいしそうに食べる子供たちの姿を見るうちに、「この自然を子供たちに残したい」「持続可能な社会を子供たちに残せるような仕事をしたい」と思うようになっていたのです。農業を志したのも、子供たちのように果物や自然にふれる体験を多くの方に提供したいという思いから。
農業経験はまったくなかったのですが、養液栽培という技術を使えば土作りや水やりなどの大変な作業を自動化できるとわかり、貯金の150万円でブルーベリーの養液栽培システム一式とブルーベリーの苗50株を買って育てはじめました。いまはソーラーシェアリング(農業と太陽光発電による発電事業を同じ場所で行ない、両面の収益源で収入を安定化させる取り組み)で原木椎茸2000本を育てています。
−今年10月には、大阪市立大学と共同開発した「無添加こどもグミぃ〜。」を販売開始されました。
猪原:小さい子供がいると、お菓子の与え方には少なからず悩みがつきまといます。お菓子をあげすぎたくない、香料や合成着色料などの添加物が多そうな市販のお菓子はなるべく避けたい。身体にやさしいおやつを用意したい……。でも現実はなかなかそう上手くいかず、親は罪悪感を覚えてしまうものです。私もそうでした。
かつらぎ町は柿の生産量が全国でもトップクラスで、柿農家さんがとても多いんです。移住前、町に通っていたあるとき、柿農家さんが規格外の柿を捨てているところを見かけました。色鮮やかな、おいしそうな果物が捨てられてしまうのはとてももったいなかった。その体験から、「和歌山の廃棄フルーツで、子供のための無添加のお菓子を作りたい」と考えるに至ったのです。
といっても、お菓子をどう作るかも知らず、お金も人脈もないゼロからのスタートで、販売にこぎつけるまでに4年かかりました。まだ大量生産ができないので、現在はInstagram限定で販売していますが、最初にご用意した150セットは販売から5時間で完売しました。販売開始後2カ月で定期会員200名のお申し込みをいただくなど、おかげさまで好評をいただいております。
−かつらぎ町で暮らしはじめて2年が経過しました。実際に住んでみて「ここがよかったな」というところ、反対に「ここはちょっと」というところは?
猪原:よくびっくりされるのですが、引っ越してからこの2年間ずっと、毎日「かつらぎ町の暮らし、最高!」って叫びながら暮らしています(笑)。本当に不便は特になくて、Amazonプライムのお急ぎ便もふつうに届きますし、土地代も驚くほど安い。夫も自然に囲まれ、自身も仕事のかたわら土いじりなどをしては幸せをかみしめているようです。
世間では「地方の人は閉鎖的、知らない人間に厳しい」といった話がよく聞かれます。実際、そういう場所もあるかもしれません。でも、かつらぎ町の方々は本当に、近所の方もスーパーの店員さんも宅配の方も、みんなやさしいです。それに皆さんゆったり過ごしていらっしゃる。大阪に住んでいたころは、とにかく人が多くて皆せわしなくイライラしていて……というのが日常的でしたが、こちらは人が少なく落ち着けます。その雰囲気は、都会に対する「田舎」ではなく、ふるさとの意味での「田舎」のような感覚です。
あと、うちの子は昆虫がとても好きなのですが、大阪に住んでいたころは身近にいる虫といえばダンゴムシやセミ。チョウチョはレアキャラで、カブトムシを求めるならカーシェアリングで車を借りて高速で出かける必要がありました。でも今は、カブトムシもクワガタもホタルも向こうから飛んできます。子供たちはかつらぎ町で初めて、カマキリもテントウムシも生で見ることができました。
この自然体験のなかで子供たちが元気になっていく姿を見て、心から感動しています。よく「かつらぎ町での暮らしは不便ですか」と聞かれるのですが、子育て中の身からすると、都市部に住んでいたころのほうが不便を感じていたところもあるなと気づかされています。
−子育てという観点でいえば、地方での豊かな自然環境は大きなメリットですね。猪原さんの場合はお子さんが3人とも小学校入学前だったというのもタイミングがよかったのではないかと思います。反面、地方での子育ては、都市部に対して教育レベルが下がるのではないかと懸念する声もあります。
猪原:その点については、私も最初は確かに違いを感じていました。大阪市内に住んでいたときは高い学費を払って、子供を英語保育のあるプリスクールに通わせていました。教育面を重視したのはもちろん、さまざまな国籍や外見の人と接する経験を通じて多様性を受け入れてほしいと思ったからです。でもかつらぎ町では、「この地域ではこの保育園」と自動的に決まってしまうような感じで、そうした選択肢はとても少ないのが実状です。
ただ、現在は、タブレットなどを使ったオンラインでの教育が進んでいますよね。うちの子もiPadで英語の学習をしています。こうした様子をみていると、これからの時代は地域の違いによる選択肢の差、教育格差を、IT技術で補える部分も多くなるのではないでしょうか。
地方の課題はビジネスの“宝庫”。移住・起業でプライスレスな人生を
−地方移住では、移住者に対して補助金が出る地域もあります。かつらぎ町はどうでしたか?
猪原:以前はそうした取り組みもあったようですが、私が引っ越したときはありませんでした。でも、町内へ定住して起業する人に対する補助金(起業支援事業補助金)はあります。それと、これは国の制度ですが、市町村から一定の認定を受けた新規就農者は最大3700万円の融資を無利子で受けられるのです。
私は農林水産省のWebサイトでその制度を知り、役場に出向きました。最初こそ役場の方に怪訝な顔をされましたし、融資を受けるまでのハードルは高かったですが、何度も通ってプレゼンするうちに役場の方が味方になってくださって、その支援のおかげで無事滑り込むことができました。
かつらぎ町は、自治体の存在が住民にとても近いと感じます。実は先日、「無添加こどもグミぃ〜。」を町のふるさと納税の返礼品に提供してほしいというお声がけをいただいたのですが、そのご連絡も役場が直接電話でくださいました(笑)。大阪に住んでいて、市長から電話がかかってくることなんてありませんよね。「かつらぎ町に家族で移住して起業して、町を盛り上げたいと言っている人間がいる」という噂は役場でも広まったようで、折に触れて助けていただいています。その密接さは心強いです。
−起業されてから約1年半、順調に事業を展開していらっしゃるように思えますが、まったく知らない土地、お知り合いが1人もいない土地への移住で、農業経験もコネクションもない中で起業を進めてこられた、そのポイントはどこにあったとお考えですか?
猪原:私が一番最初にしたことは、かつらぎ町をPRするローカルWebメディア『かつらぎーの!』の立ち上げです。私はメディアの運営も未経験でしたが、「『かつらぎーの!』というメディアで記事にするので取材させてほしい」と申し込むと、皆さんいろいろなお話をしてくださるんです。私はそこでいろいろなことを学びましたし、地域の方々と知り合うことができ、話の中で私がしたいこともお話ししてご協力につなげることもできました。
−自ら行動を起こすことが大事だと。ご自身のメリットだけでなく地域のPR効果を生むことでメリットを還元することもできる、すばらしい取り組みですね。
猪原:それと私の場合は、子供が3人いてママ友がたくさんできたということが強みになったと思います。私はPinterestで、絵や写真を使って自分のしたいことをまとめた「プレゼンブック」というのを作っているのですが、それをママ友に見せては「こういうカフェをオープンしたい」「こういう観光農園をオープンしたい」「かつらぎ町でこういうものを作りたい」という思いを100人ぐらいにプレゼンしました。その結果、これまで多くの方が協力してくださいました。
「無添加こどもグミぃ〜。」もそう。私自身は農家さんとのつながりがまったくない中で、ママ友たちがネットワークをはりめぐらせて廃棄フルーツ集めに協力してくれましたし、試作品やサイトデザインなどについても意見をもらいました。その結果今があるので、本当に感謝感謝です。
−地方移住を考えるうえでは、仕事の獲得やその収益面も無視できません。猪原さんはその点、大阪の生活と比べてどうお感じですか?
猪原:今はいろいろ新しいことを立ち上げている真っ最中ですので、収支という点ではこれからです。それに果樹栽培は収穫までの期間が長く、ブルーベリーの養液栽培でもおよそ2年はかかります。となれば、売り上げが立つのはそれ以降ということになります。
でも、「無添加こどもグミぃ〜。」だけをみても、5g入り袋を毎月5袋お届けするという定期購入形式で月額2000円や2500円と決して安くないのに、前述のように思いのほか売れています。つまりそれだけの親御さんが、お子様のおやつについて課題を抱えているということです。
規格外で廃棄されてしまうフルーツの活用は農家さんの課題解決につながりますし、地域資源を生かすことにもなります。フードロス削減にも貢献できますよね。そしてグミの加工は障害者福祉施設にお願いしており、これは障害者雇用という課題解決の一助になるでしょう。
私はかつらぎ町に移住して、「地方の課題はどれもビジネスにつなげられる」と考えるようになりました。地方の課題は少なくありませんが、その課題がすべて“宝”に、ビジネスの種の宝庫に見えるんです。もし都市部で、何で起業するか探している方がいらっしゃったら、地方には地方ならではの可能性があるということも知ってほしいです。
−会社をお辞めになることを悩みに悩んだということでしたが、その決断をいい結果につなげられたのですね。
猪原:会社を辞めるのには大きな勇気がいりました。でも今の仕事は、大阪で働いていたときよりも600倍くらい楽しいし幸せです。何よりよかったと思っているのは「自分が心から好きだと思える商品をもつことができた」ということ。心の底から好きだと思える、楽しくてワクワクする、しかも地域や社会の役にも立てる商品を、自分の意思で決めてつくり出し、持続可能なビジネスにできている。その実感には、何よりも得がたいプライスレスな価値があります。
大阪にいたときに起業していたら、私はまったく別の、前職経験を全面に生かし、それこそ収益面を重視した事業を選んでいたのではないかと思います。その仕事が好きならもちろんそれでもかまわないのですが、私の場合はもしかしたら、今私が感じているような充足感は得られなかったかもしれません。
私には、「地方移住をしたことで、人生の手綱が自分に戻ってきた」という感覚が強くあります。移住を検討されている方、変化を求めている方のなかには、今の生活に何らかの負の感情やもやもやした気持ちを抱えている方もいらっしゃると思います。もしそうなら、人生に横たわる川の対岸へ、勇気をもって渡ってほしい。そうすることで人生の手綱が自分に戻ってくるよ、ということをお伝えしたいです。
猪原 有紀子(いのはら ゆきこ)さん
1986年⽣まれ、大阪府出⾝、和歌山県伊都郡かつらぎ町在住。2009年に同志社女子大学学芸学部情報メディア学科を卒業。同年、株式会社セプテーニ・ホールディングスに入社。約10年勤務し、夫と3人の子どもを育てながらWEBマーケティングの仕事に従事。2018年、和歌山県伊都郡かつらぎ町に移住。翌2019年に新規就農、無農薬ブルーベリー栽培と原木椎茸栽培を開始。「お母さんの育児ストレスを解決して、全ての子どもが自分は愛されていると実感できる社会をつくる」をミッションに、新しい時代の農業に挑戦している。2021年6月には、半個室で自然体験のできる観光農園「くつろぎたいのも山々。」をオープン予定。※役職・年齢は、インタビュー実施当時(2020年11月)のものです。