石川

GLOCAL MISSION Times 編集部

田舎バックパッカー 中川 生馬さん

「ライフスタイルの選択肢を増やしたい」という思いが募り、2年半にわたる旅に出た -前編

新型コロナウイルスによる行動変容の影響から、テレワークと並んで注目を集めている地方移住。国が地方創生を打ち出した2014年から、移住希望者は増加傾向にあると言われてきました。そんな中、今回のコロナ禍をきっかけとして本格的にリモートワークへと舵を切る企業が増え、「高い家賃を払ってまで都心に住み続ける必要がなくなった」と感じ、地方移住を改めて真剣に考える人も増えてきているようです。

とはいえ、実際に行動に移そうとすると高いハードルが待ち構えているのが“移住”というもの。都市部を離れ、家と会社を往復するだけの人生から脱却し、自然豊かな土地で有意義な時間を過ごす――。そんな夢物語のような生活は、ごく一部の限られた人にのみ許された特権なのだとあきらめてしまった人も多いのではないでしょうか。

ご自身を「田舎バックパッカー」と称する中川生馬さんは、地方移住が話題になる数年前の2010年に日本の田舎を巡る旅に出て、2013年5月より現在お住いの奥能登・石川県の穴水町岩車でご家族とともに暮らしていらっしゃいます。世の中に先駆けて地方移住の道を模索し、新しいライフスタイルを探求・提案してきた中川さんに、移住前のキャリアや旅に出るまでの葛藤、長期にわたる旅の末に現在お住いの能登に定住を決めた理由など、たくさんのお話をうかがいました。

広報としてのキャリアを重ねた東京での10年間

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ー日本のあらゆる“田舎”を旅した末に、現在は能登半島にある石川県穴水町で暮らしていらっしゃる中川さんですが、旅に出る前は都心で会社勤めをしていらしたのですよね。

中川さん(以下、敬称略):大学を出てから約10年間は、東京で会社員として働いていました。新卒の時にはITスタートアップに就職したのですが、1年ほどで会社が買収されてしまい、結果的に退職。次の仕事を選ぶにあたり、「自分は何をするのが好きなのだろう」と改めて考え、リストアップしました。その結果、人と話したりものを書いたりすることを仕事にしたいと思い、人とのご縁もあって大手PR会社に転職しました。

主な担当はIT系の企業で、特に多かったのはアメリカに本社を置く企業が日本での認知度を高めるための広報活動でした。5年ほど勤める中で、報道資料の作成やメディアとの折衝活動など、広報の実務的な部分はほぼすべて経験させてもらいました。

ーその後、電機やエンターテインメントを中心に多岐にわたる事業を展開するグローバル企業に転職されました。世界的にも大手と言えるこの企業を選んだ理由は何だったのですか?

中川:PR会社で広報の基本的な仕事を網羅的に経験できたので、今度は代理店としてではなく事業会社の“中”での広報業務を経験してみたい、ということが一番大きな理由でした。加えて、企業文化に惹かれたことも理由の一つです。国内外に向けてさまざまな事業を展開し、チャレンジングなこともたくさん手掛けている会社だったので、単純に「楽しそう」という魅力を感じたのです。この時も、最終的に人とのご縁もあってコーポレート広報として転職し、3~4年ほどお世話になりました。

人生すべてを会社に捧げるような生き方への疑問が募り、会社勤務生活に終止符

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ーそんな中、2010年に会社勤務生活から離れ、日本全国を旅する暮らしにシフトされました。人生を変えた非常に大きな決断だと思うのですが、旅に出たきっかけは何だったのですか?

中川:毎日がむしゃらに働くうちに、気がつけば「朝起きて満員電車で通勤して会社に行き、終電で帰ってシャワーを浴びて明日の仕事のために寝る」という生活になっていました。そういった「人生のほとんどを会社のために使う生き方」に疑問を抱くようになったことが、旅を始める最初のきっかけでした。ほぼ毎日24時間すべてを仕事に費やしているけれど、人生とは本当にこんなものなのだろうか、と考えるようになったのです。

ソニーなど会社や仕事に対する不満はまったくなく、むしろ広報実務に関してはすべて会社で学んできたので感謝しかありませんでしたし、海外出張も多く、好きな仕事で非常にやりがいもありました。スタッフに優しく、大変働きやすい会社でもありました。だからこそ、フリーランスになった現在も、積極的に広報の仕事のお手伝いなどもさせていただいているわけですから。ただし、人生をすべて会社に捧げているかのようなライフスタイルそのものに、どうしても行き詰まりを感じてしまったのです。

とはいえ、自分には独立するほどのスキルはないし、広報という仕事自体、東京以外にはニーズがないのではないか。次第にそういう後ろ向きなことも考えるようになり、しばらくは悶々とした日々を過ごしていました。

ーいわゆる理想のライフスタイルがあったわけではないけれど、「このままでいいのか」という思いが強くなっていったのですね。

中川:そもそも、多様なライフスタイルを知ってから自分の生き方や生活環境を選びたいという気持ちは、20代のなかば頃から抱いていました。子供の頃からずっと「将来は就職して会社員、“サラリーマン”になるのが当たり前」という教育を受けてきて、その教えの通り会社員になったものの、よくよく考えてみるとそれ以外の生き方って知らないな、と。

僕は高校時代と大学時代をアメリカで過ごし、その際に自給自足的な生活スタイルのホームステイ先にお世話になった経験があります。しかし、その経験・体験をもってしても、固定観念として自分の中に刻まれている「将来は会社員」の感覚を相対化することはできませんでした。

もちろん、有休を使って旅をしたこともありましたが、長くても1週間程度の休みしか取れないので、旅に出ても結局、限られた部分しか知ることができません。せっかく現地の人と親しくなれても、すぐに帰る日が来てしまい、「暮らすように旅をする」ことは難しい。もう少し長く滞在してその土地を体感してみたいと思ってもなかなか叶わない。

悩んだ末、会社員としての生活スタイルに一旦終止符を打ち、ライフスタイルの選択肢を増やすべく日本の“田舎”を目指して旅に出たのが、2010年の10月でした。

「田舎バックパッカー」として日本各地を巡る日々

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ーご自身を指して「田舎バックパッカー」とおっしゃっていますが、どのあたりを旅していたのですか?

中川:自分にとって暮らしやすいのは海外ではなく日本だということは明確だったので、日本の“田舎”を中心に旅をしていました。ひとことで“田舎”と言っても定義は人によってさまざまだと思うのですが、当初は“田舎”イコール“島”というイメージを持っていたこともあり、行き先は離島ばかりでした。今振り返ると、「離島では本土とは違う生活をしているのではないか」というのは単なる偏見なんですけどね。

旅を続けるうちに、中学生の頃に社会科で使っていた地図帳を持ち歩くようになり、「地図帳をなにげなく開いて目に入った知らない土地に、とにかく行ってみる」という決め方に落ち着きました。事前に調査したりすることもなく、「自分が名前を聞いたことがない場所」をひたすら回ってみよう、と。

当時お付き合いしていた現在の妻と一緒に旅に出たのですが、30キロくらいのバックパックにテントや寝袋、お米などの食料を入れて、ほぼ毎日テントを張って寝ていました。2010年の10月に旅を始めて、1か月後の11月には結婚しましたが、だからといって就職するわけではなく、結局現在の住まいである能登に移住するまで約2年半、旅をしながら暮らしました。

ー働かないことに対して不安になることはありませんでしたか?

中川:働いてはいなかったのですが、ヘッドハンティング会社や求人サイトに登録はしていたので、そことのやり取りは続けていました。だいたい月に一度は地元の鎌倉に戻り、そのタイミングで毎回自分の頭の中も整理して、「これから自分はどうしたいのか?」を考える作業をしていました。

「まだ旅を続けたい」と感じれば、再び旅に出る。興味のある企業からオファーがあれば、履歴書を送ったり面接を受けたりもする。選択肢を広げるために始めた旅なので、旅を続けることが結果的に選択肢を狭めるという本末転倒なことにならないように気を付けていました。

ただ就職に関しては、そういう活動の仕方ではどうしても本気にはなれませんし、「いいところがあれば受けてみよう」というスタンスでは先方にもその中途半端な気持ちが伝わってしまうのではないかという懸念もあり、その活動を通して理想の働き方に出会うことはありませんでした。

最終的な移住先として選んだのは、奥能登・石川県穴水町岩車

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ー2年半もの長期にわたって旅をして、最終的に能登に移住することを決意されたわけですが、決め手は何だったのですか?

中川:実は能登は旅に出て最初に行ったところなのですが、それ以外にも、四国や九州、北海道などいい場所がたくさんあり、最終的にどこに住むかを決める際にはものすごく悩みました。北海道の洞爺湖も素晴らしいところでしたし、九州の五島列島や大分、四国で言えば徳島県の神山町や、「葉っぱビジネス」で有名な上勝町なども非常に魅力的でした。

ただ、移住後の生活を現実的に考えた時に、例えば仕事で上京する必要が生じたら、船便しかない離島は厳しい。それに、地方とはいえ既にそこそこ盛り上がっている土地は自分にとって面白味がない気がする。さまざまな条件を考えるうちに、「首都圏と陸続きで交通の便がある程度確保でき、かつまだ世間に知られていない場所がいいな」という気持ちに傾いていきました。

その点で、能登の穴水という地域は、能登空港まで車で30分以内に行くことができ、東京へのアクセスもよい。さらに言えば、おそらく多くの人が名前も聞いたことがない土地なので、人と違うこと、ユニークなことをするのが好きな僕にとっては好都合でした。

しかし何よりも大きな決め手は、旅の最中に出会った穴水の人たちがとても魅力的だったということです。初めて訪れた際にも手厚く迎えてくださいましたし、その後、別の場所を旅している時にもいろいろ気にかけてくださいました。「今どこにいる?」、「今度祭りがあるから仕事として写真を撮りに来てほしい」、「ブログ開設の手伝いを仕事として受けてほしい」などと頻繁に連絡をくださり、仕事を作ってくれたりもして、人の温かさに多く触れました。

実際に移住したのは2013年の5月でしたが、その時にも大変お世話になりました。

ーそれは心強いですね。とはいえ、中川さんのように違う土地から移住してくる人は当時珍しかったのではないですか?

中川:そうですね。最近でこそ漁師、木こり、ライター、シェアハウス運営、料理店運営などとして移住してくる方が少しずつ増え始めましたが、当時はほとんど聞いたことはありませんでした。僕の前に他の地域から移住者が来たのは20年近く前だったそうです。

地方の人口減少が全国的に問題になっていますが、移住者が爆発的に増えて人口減少が大幅に改善するようなことはありえない、というのが現地で暮らす人たちの共通認識です。実際に、奥能登には輪島という有名な土地があり、そこに移住者が少しずつ増えてはいますが、それでも人口は減り続けていますから。

穴水も例外ではありません。僕が旅を始めた最初の頃、2010年10月に来た時には1万人強だった人口が、現在は8千人を切ってしまっています。毎年平均約200人ずつ減っている計算です。

ー移住者が増えているというニュースはときどき見ますが、やはり実際には厳しい状況なのですね。

中川:そういう状況を打開するためにも、移住するからには「今の時代、田舎での暮らしも十分にありうる」ということを発信したい、というのが僕の目指すところでした。収入もなく、具体的な仕事もありませんでしたが、その理想だけを掲げて移り住んだのです。

「田舎への旅」と「田舎でのライフスタイル」。この二つの要素を軸にあらゆることに挑戦し、「田舎には仕事がない」という偏見を覆したい。日本の田舎に眠っている観光資源を発掘し、京都や奈良といった名の知れた観光地に勝るとも劣らない田舎の素晴らしさを発信したい。発信だけでは限界があるので、都市部から実際に遊びに来てもらい、物理的に田舎を体験してもらいたい。

7年前、まだ移住者もほとんどいない時期に突然やってきて、多くの人に「何をしている人なのだろう」ときっと怪しまれていたと思うのですが、僕自身の胸の内はそういう理想や今後の構想で溢れていました。

<後編:思い込みを捨てることで、生き方と働き方の可能性は大きく広がる>

中川 生馬(なかがわ いくま)さん

1979年生まれ、石川県鳳珠郡穴水町岩車在住。地元・鎌倉市の中学校を卒業後、高校~大学時代をアメリカ・オレゴン州で過ごす。2001年に新卒でITスタートアップ企業に入社し、2003年に国内独立系最大手の広報代理店 共同ピーアール株式会社に転職。2007年より電機・エンターテインメントの世界大手企業 ソニー株式会社にてコーポレート広報を担当。2010年10月、ライフスタイルの選択肢を増やすべく、日本の田舎/地方を中心に、テント・寝袋・自炊道具などを担いだバックパッカー旅を開始。以後2年半にわたり旅を続ける。2013年5月、能登半島・石川県の穴水町岩車に移住。現在は、「田舎への旅」と「田舎でのライフスタイル」の二つを軸に、田舎旅やライフスタイルの情報発信、都市部の人たちが能登の暮らしを体感できる「“ざっくばらん”な田舎ライフスタイル体験」の提供を行なうほか、東京のITスタートアップ企業、移住先・能登や静岡県の中小企業の広報サポート、地域活性プロジェクトサポートにもリモートワークで従事。また、ブログやウェブ制作、写真、執筆活動なども行なっている。移住先で自宅がある岩車の隣の地区 穴水町川尻では、シェアハウス・サテライトオフィスなど多目的・多機能の「田舎バックパッカーハウス」、そこに併設で“住める駐車場”であり長期滞在可能な車中泊スポット「バンライフ・ステーション」も運営。現在、東京の“バンライフ”のCarstay(カーステイ)にフルタイム広報として関わりつつも、“手ぶら旅行”のflarii(フラリー)、静岡県島田市で幻のきのこ“はなびらたけ”を生産する大井川電機製作所、石川県輪島市では国産漆だけでアート作品をつくる“芯漆”の山崖松花堂などの広報も担当している(https://inaka-backpacker.com/blog/)。

(「Glocal Mission Times」掲載記事より転載 )