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GLOCAL MISSION Times 編集部

札幌観光バス株式会社 社長 福村 泰司さん

リクルート時代のひと言で拓けた北海道での人生

古巣の社長のひと言が、今の自分を作った。保険会社、コンサルティング会社、リクルートなどを経て札幌観光バス株式会社の代表取締役社長に就任した福村泰司氏は、リクルートエイブリック時代の社長から言われたひと言が、今の自分を作ったといいます。自ら「どん底」と呼ぶ3度の苦難の時代をいかに乗り越えたのか。そのストーリーに迫ります。

恩師の言葉「ひとつ、この際」

今の自分を運命付けたのは「ひとつ、この際」という言葉だと思っています。リクルートエイブリック(現リクルートキャリア)に所属していたときの、当時社長の岡崎坦さんの言葉です。「いいか、チャンスはそこかしこに転がっているんだ。飲み会の幹事を頼まれても、とにかくやってみる。指名してくれたのはどういうことなのか考えて、そういうのは乗ってみるんだよ。ひとつ、この際、やってみるんだ」。この精神で仕事を積み重ねて、今の自分へとたどりついたのです。

リクルートエイブリックを退社して、再生支援を生業とするレジリエンスというコンサルティング会社を設立したのですが、他の創業会社同様に、立ち上げ期はそれまでの人脈や紹介で何とかなるけど、2年目からは売上がガクッと下がった。本当にガクッと下がってしまったんです。自分たちの会社だから、自分たちで何とかするしかない。ここは仕事を選ばずに何でもやろうと思って向き合っていました。借金もまだまだあったし、どんな大変な仕事でも断らず、「ひとつ、この際」の精神でガムシャラにやっていました。

そんな時にチャンスが訪れました。とはいっても、当時はチャンスだと思っていなかったのですが。あるビジネスパートナーから、「北海道のバス会社を数社買収したので、社外取締役として行ってくれないか」という話がありました。この時の仕事は斜里バスなど道東のバス会社3社の再生事業。見知らぬ北海道での仕事でしたが「ひとつ、この際」で飛び込んでいきました。

月1回、役員会で訪れているうちに、完全に北海道にはまっていきました。再生先の1社が縮小しようとしているアウトドア事業が、私にはとても魅力的に見えた。「やめるなんてもったいない」。知床のネイチャーガイドツアー事業をより発展させるために、レジリエンスと斜里バスとで新会社「知床アルパ」を設立しました。企業再生というと事業縮小になりがちな中、新たな会社を設立するという動きは、周りに意外に映ったのだと思います。

ネイチャーガイド・山岳ガイド事業を手掛ける「知床アルパ」

そして、2012年3月、企業再生ファンドから、札幌観光バスを買わないかと打診されました。知床アルパにとって、札幌のバス会社と組めば、新千歳から道東へ人を運ぶことができていいかもしれないと思っていました。高齢の社長を補佐する副社長という立場で札幌観光バスに来たのですが、当時の社の雰囲気は、とにかくマイナス思考。もともと、名古屋鉄道の子会社で、06年にそのファンド会社に売却されていました。その後再生に取り組んみましたが、3.11の震災やリーマンショックなどもあり、観光業界が厳しい状況の中、バス会社の業績も赤字続きでうまくいっていませんでした。従業員は希望が持てなくなっていたのです。

ある時、従業員が手帳を持っていないことに気づきました。その日その日の仕事をしていればいいやという感じで、仕事に対して前向きな姿勢を失っていて、私のことも「また腰掛けの経営者が来た」くらいにしか思っていなかったと思います。道東のバス会社の役員をしていたので、バス会社の社員のやりがいを知っていたこともあり、自分の中ではやってやるという気が強くありました。しかし、従業員はそうではない。そこから、徹底的にコミュニケーションをして、話をする機会を持ちました。

話をしてみると、自前の防寒着で仕事をしているというバスガイドもいました。会社のブランディングという意味でも、それはよくない。すぐにコートをそろえました。小さなことにすぐに耳を傾けるようにしていると、従業員が手帳を持ち始めたという嬉しいニュースも入ってきました。少しずつ手ごたえを感じていくうちに、「ひとつ、この際」と決意し、13年6月にMBOによって自分で株式を取得して社長になりました。

3度のどん底から這い上がる

人生で3度のどん底に落ちたと思います。前述のコンサルティング会社での落ち込みはその一つでした。創業期の勢いが徐々になくなっていって、仕事を選ぶことができなくなった。そうすると、他が受けないようなタフな仕事を次々にこなしていかなければならなくなる。ファンドや銀行の下請けで再生に取り組んで成功したかと思うと、MBOでみんなエグジットして、お役御免。そうするとまた仕事がなくなる。自転車操業もいいところだったように思います。ただ、そういうところに身を置くからこそ分かることもたくさんある。そのうちの一つが「金があるところに情報が集まる」というものでした。だから、自分たちもレジリエンスインベストメンツという会社を作った。牧場などいくつかの企業に投資して再生に取り組みました。予想通り、情報がどんどん集まるようになり、北海道での取り組みにつながっていきました。

3度のうち最初のどん底は、社会人になっていきなりやってきました。大学を卒業して、私からすれば難関の東邦生命保険に就職できたのです。希望に胸を膨らませて入社しました。ですが、その配属先というのが、社内のだれもが「行きたくない」と口をそろえる法人第四営業部。不人気ランキングのナンバーワンでした。ひたすら中小企業に飛び込み営業をするような部署です。「嫌なら辞めろ」と灰皿が投げつけられるようなところでした。歯を食いしばって、はいつくばって、何とかついていっていた。同部署の他の人も、何とかここからはい出そうともがいていたと思います。

2年目のある時に、キャリアアップのために社内での海外留学制度に応募しようとしたのですが、当時の上司から「推薦なんかできるか。まだ早い」と、ピシャリとやられる始末でした。それでも納得がいかないので、上司を経ずに課題の論文を直接人事部に持ち込みました。それくらい、「ここから出たい」という気持ちが強かった。結局、英語の試験と面接で最終選考まで残ったけど次点で落選になりました。

ただ、そういう行動のおかげなのか、4年目で証券会社に出向になりました。これが私にとって大きかった。シンクタンク、アナリスト、ファンドマネージャー、ディーリングなどいろいろなポジションの仕事を経験しながら、マネーマーケットを学ぶことができました。当時は日経平均が最高値(38,957.44円=89年12月29日)を記録したバブルの絶頂期です。それまでの3年間に比べ、自分自身がものすごく前向きになりました。新聞の経済面も読みこなせるようになり、自分自身の変化を感じました。

1年で東邦生命へ戻ると、花形部署の有価証券部に配属されました。運用の仕事は面白かったのですが、そのうち、バブルが崩壊。解約の嵐で含み益を全部吐き出しました。ある時、有価証券部の若手だけが集められて、わが社の含み益を作るにはというお題が出ました。私は「ベンチャー企業に投資すべきだ」と訴えました。しかし、上役からは「お前は経営というものがわかっていない」と一蹴されました。「そんなリスク取れるか」と。正直、失望しました。リスクを取らないで含み益なんてできるわけがない。そんな魔法みたいな方法があったら教えてくれよと。これは、あくまで当時の感想なんですけど(笑い)。

そのうち、人事異動がありまして、「もう1回営業に出ろ」と。それまで有価証券部にいて、会社の財務内容や有価証券のポートフォリオがどのような状況か分かっていたこともあって、「ダメだ、この会社は」と思うようになっていた頃でした。だんだん会社から気持ちが離れてしまい、結局、外資系証券会社の経理部門に転職することになりました。でも、「経営が分かっていない」という言葉は、心に突き刺さったままでした。

転職先の外資系証券会社では短い間しかいなかったのですが、そこで仕事をしているうちに、確かに、自分が「経営を分かっていない」ことを痛感するようになりました。「ビジネススクールに行こう」。そう考えて会社をあっさり辞め、勉強を始めたのです。
しかし、ここからが自分にとっては地獄のような、人生2度目のどん底でした。収入がなくなったわけですから、かみさんに働いてもらっても生活するには足りず、借金も出来ました。前向きに勉強をしていても、気分はどんどん落ち込んでいきました。この浪人生活は半年間続くのですが、この頃は自分自身の精神面にとっては人生最悪のどん底期でした。

次の春、KBS(慶應義塾大学大学院経営管理研究科=通称:慶應ビジネススクール)に入学することができ、ここからまた、人生が上向きになっていきました。ベンチャー企業の勉強をじっくりとやることができたし、いろいろな出会いもありました。毎日、様々な刺激を受けることで、再び前向きな人生プランを持つことができました。KBSの存在は本当に大きかったと思います。

修了後、指導教授の紹介でコンサルティングファームにお世話になることになりました。建て直しの仕事を、常駐型で泥臭い仕事をやっていきました。その後、外資系のブランドコンサルティングの会社へ転職し、ある時、リクルート担当になったのです。当時のマネージャーは水谷智之さん(後のリクルートキャリア社長)。これが本当にタフなクライアントで(笑い)。いろいろな宿題を出され、何とか乗り切って(笑い)。そういうのをこなしていくうちに鍛えられ、信頼を得ていきました。そして、ある時、当時の役員から「リクルートエイブリックに来ないか」と誘われたのです。

新しい価値を生み出す生き方

リクルートエイブリック(現リクルートキャリア)に誘われた際、私は「コンサルとか企画はもういい。営業をやらせてくれ」と言いました。社会人になって早々の保険会社では、あれだけ嫌だった営業を、です。あの時代は苦しいどん底の時代でしたが、まさに「脱出」という感じで出てきたこともあり、どことなくやり残した感じがあった。そして、コンサルティングをはじめ様々な業務を経験した今なら、差別化した営業ができると考えるようになっていました。

入社後、本当に営業に配属されました。この時、目標数字を持たされ、毎日かばんを持って営業することになり、「本当にいち営業マンの業務をさせられるんだ」と驚いたのを覚えています。そのうちに、求人営業に加えてキャリアアドバイザーもやるようになりました。「次何やりたい?」と聞かれる機会があったので「マネージャーをやりたい。一番数字が厳しいところを」と答えました。何かを変えるとか、再生させるとか、そういうことに取り組んでみたかったんです。

当時、一番数字が厳しかったのは金融チームでした。バブル崩壊で苦しむ金融業界担当なので、本当に苦しんでいた。興銀や長銀、保険会社が次々になくなる時代。数字が上がる方がおかしかったのです。数字が厳しいから、みんな辞表を持っているような部署でした。「辞めたいです」オーラがバンバン出ている。希望したことではありますが、またしても、どん底の部署への配属となったのです。

突破口はありました。当時はちょうど、外資系のファンドが入り込んできた時代。「これだ」と思って、ことごとくアポイントを取らせました。数字が上がっていないチームで、辞表を書いているような部下と仕事をするしかなく、おまけに現在の金融求人のマーケットは底をついている。新しいマーケットを開発していくしかなかったのです。

そうすると、数字が出始めたんです。落ちるところがないので、上がるだけですから、そういう意味では割り切って仕事をしていくことができました。「デスクワークはいいから、アポ取りの電話をしまくれ」。そんな思い切った指示も出せましたし、なんと業績が浮上したんですよ。最下位脱出。「下のチームがいるぞ」って喜びました。その次はリート(不動産投資)を狙いました。どの部署がやるとか決まっていなかったので、「金融でやるぞ」ということになったんです。どんどん開拓していくと、ものすごく求人が来たんですね。

すると、岡崎社長に呼ばれまして、「ひとつ、面倒を見てほしいチームがあるんだ」と人事異動を告げられました。それが、「営業スペシャリストチーム」でした。実はこのチームはつい最近、金融チームが追い抜いたばかりの、例のチームだったんです。金融チームで「よし、行くぞ」と意気上がっていた中で、また業績最下位のチームに異動になりました。

営業スペシャリストチームというのは、40代以上の求人を手掛けるチームです。当時はまだ「35歳転職限界説」が根強くあったので、今のように40代以上の求人は多くありませんでした。さらにいえば、40代以上の求人を扱えるキャリアアドバイザーですから、年齢的にも50代、60代の、ひと癖ある大先輩ばかりでした(笑い)。マネジメントが大変で、数値目標が未達成のメンバーばかりで。悪戦苦闘しながらも、何とか楽しくやってましたよ。すると、なんと、このチームがクォーター(四半期)ですが、目標達成したんです。何十連敗もしていたチームが。

その時、感動することがありました。新社長として来た村井満さん(現日本プロサッカーリーグ理事長=Jリーグチェアマン)や、他の役員がみんな私の部署に来て、くす玉を割ってくれたんですよ。「おめでとう」と書かれていて、役員が私やチームの人たちを握手攻めにして。正直、「そこまで注目されていたのか」と驚きました。

どん底のチームでも新しい目標を持って、マーケットを切り開いていけば、何とかなるんだということがよく分かりました。転職の35歳限界説が崩壊する頃で、40代が捨てていた希望を再び持ち始めていた時代。自分自身も当時、40歳を過ぎたばかりのころで、「会社員としてはもういいかな」と思うようになっていきました。
そして、先輩と2人でコンサルティング会社のレジリエンスを立ち上げまして、話が冒頭に戻ります。新しいどん底の始まりでしたが、それが結果的に、今の自分へとつながっていったのです。

社長になってつながった人生ストーリー

札幌観光バスで、自分の会社を切り盛りしていくようになって、つくづく思うのが「サブじゃダメだ」ということです。高校時代の軟式テニス部での副キャプテンに始まって、サラリーマン時代はもちろん上司がいましたし、設立したレジリエンスも先輩が社長で自分が副社長だった。トップではないサブというポジションに疑問を持ったこともないですし、そんな中で力を発揮していくのが自分の仕事だと思っていました。

でも、全然、違っていたんです。最高責任者として判断していくと、仕事の面白さが以前とまるで違うのを感じます。自分のやりたいようにやれる。一方で、失敗するとすべて自分自身に損失として返ってくる。リスクを負う覚悟が、まったく違います。

ここに来て取った最大のリスクは、古くなったバスを積極的に新車に入れ替えること。何十年も使われてきたバスを短期間に入れ替える大規模な設備投資です。1台3000万円ほどのバスを、最初の1年半で13台、5年で21台入れました。新車による営業面での優位もさることながら、私にとっての最大のベネフィットは従業員から「この社長は腰掛けじゃない」と思ってもらえたことだと思います。何事にも代えがたいことかもしれません。

この会社もまた、どん底かそれに近い状態だったと思いますが、コンサル時代とは違って不思議と再生という気がしないんです。自分がリスクを負えることで、新しいものを生み出していっているという気がしています。トップとして経営責任を負い、自分の判断で会社に新しい価値を生み出していける。毎日が楽しくて仕方ないですし、次々にやりたいことが湧いてきます。保険営業、マネーマーケット、コンサルティング、リクルート・・・。そうした経験がすべてつながり、ここにきてやっと自分自身のストーリーができたと感じています。

札幌観光バス株式会社 福村 泰司さん

1963年、埼玉県上福岡市(現・ふじみ野市)生まれ。86年駒沢大学法学部を卒業後、東邦生命保険(現ジブラルタ生命)に入社。外資系証券会社を経て、慶応義塾大学経営管理研究科(KBS)修士課程(MBA)を修了。その後、コンサルティング会社とブランディング会社で経験を積み、2002年にリクルートエイブリック(現リクルートキャリア)に転職した。06年に独立し、企業再生コンサルティングのレジリエンスを設立して副社長に就任した。12年6月に札幌観光バスの副社長となり、13年6月から現職。15年3月、北海道・美瑛町でレストランやミルクファクトリーを運営する美瑛ファーマーズマーケットを設立し、社長に。